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私たちは100年という長い歴史の中で、様々なメニューを生み出してきました。現在でも愛されるメニューを、ご自宅でも味わっていただけるように特別にレシピを公開しています。是非ご自宅でも試して、ご家族やご友人とお召し上がりください。
ウォルドーフ・サラダは1896年頃、ニューヨークのウォルドーフ・ホテル(ヒルトンの最高級ラグジュアリーブランド「ウォルドーフ・アストリア」)で、「ウォルドーフのオスカー」として親しまれていたメートル・ドテルのオスカー・チルキーが考案しました。
ボールに卵黄、マスタード、シャンパンビネガーをいれホイッパーでよくかき混ぜ、マヨネーズを作る要領でオリーブオイル、白トリフオイルを加え、塩で味を調える。
あれば、リンゴのチップ、スティック状のパイ、キャラメルナッツなどを飾る。
1900年代、ニューヨークのウォルドーフ・アストリアの持ち主であったジョージ・ボルドは、米国とカナダの境目にあるサウザンド諸島に向かっていました。同船していたメートル・ドテルのオスカー・チルキーにサラダを作るよう依頼。サラダはできたもののドレッシングがなく、オスカーは、船にあった稀少な食材を利用して即席のドレッシングを作りました。
1894年、ニューヨーク・ウォール街の元ブローカー レミュエル・ベネディクトが、ウォルドーフ・アストリアを訪れ、二日酔いを治すために「バターの塗ったトーストにポーチドエッグ、パリパリのベーコン、ひと口分のオランデーズソース」を注文しました。ウォルドーフのオスカーはその料理から感銘を受け、トーストをイングリッシュマフィンに、ベーコンをハムに替えて現在のエッグベネディクトを完成させました。
ポーチドエッグとハムを温かいイングリッシュマフィンにのせ、オランデーズソースをかける。
ビーツの赤い色を活用したこのケーキは、アメリカ南部では昔から伝わる母の味と言われ、今では世界的に親しまれています。1920年代にニューヨークのウォルドーフ・アストリアでシグニチャーディッシュとして提供されていたのが起源だと言われています。当時はウォルドーフ・レッド・ケーキやレッド・カーペット・ケーキとも呼ばれていました。
176度にオーブンを温める。3つの23cmの型にクッキングシートを敷きバターを塗っておく。
パーマーハウス(現ヒルトングループホテル)創業者の妻であり、1893年のシカゴ万国博覧会のリーダーを務めていた、バーサ・パーマーが「美しくて簡単に運べる何かを用意してほしい」という依頼を受けました。シェフのジョセフ・セルに相談し、生まれたのがブラウニーです。パーマーハウスでは、120年経った今でもその当時のレシピがそのまま引き継がれ、年間5万個を売り上げています。
※正しく焼きあがったブラウニーは、その濃厚さから、中は少ししっとりとした状態となる。
カリブ・ヒルトンのバーテンダー ラモン・マレーロ・ペレズが、3ヵ月間試行錯誤を繰り返し、1954年「ピニャコラーダ」を完成させました。彼はその後35年間にわたりカリブ・ヒルトンでピニャコラーダをお客様のために作り続けました。1978年、プエルトリコはピニャコラーダを「国の飲み物」と名付け、彼を表彰しました。現在ではプエルトリコの国民的ドリンクとして親しまれています。
「ジンか、ウォッカか、はたまたエスプレッソなのか」マティーニの正しい飲み方については、1890年代から議論されています。ウォルドーフ・アストリアでは、初めてジンとウォッカを混ぜたマティーニを提供し、「ウォルドーフ・アストリア・カクテル」と呼ばれ、バーに無くてはならない存在となっています。
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